遠国峠



星城遠国(せいじょう・えんごく)は、
大きな山がそびえ立つ山村で両親と共に暮らしていた。

山は彼がずっと目にしてきた「そびえ立つ脅威」そのものだった。
「いつかあの山を超えるんだ」それが彼の生涯の目的だった。
あの山の向こうには、遙か地平までつづく永遠の楽園があるんだと、そう思っていた。

山村では数人の限られた男達だけが山を越えることができた。
かつてあの山を越えようとした彼の父親は、山で死んだ。
彼の母親は、夫をころしたあの山の存在を忌み、「あの山には近づくな」と彼に言い聞かしていた。
母は彼が成人になる頃に事故で亡くなった。
一人になった彼は、山を越えようとした。


クローは、
あの山で生活を続ける悪魔の娘。
身元はなく、山の中で生活を続けていた。

山に登る人間を殺し、金品を奪い、人間と動物の肉を食らって生き延びてきた。

ある吹雪の山の夜、彼女は遠国と出会った。
遠国は死にかけていた。
雪の中で倒れている彼をみて、彼女は彼がもう死んだものだと思っていた。
彼の身ぐるみを奪い、肉を引きちぎろうとしたその時、遠国が喋った。

「母…さん…?」

彼女は憤慨した。
「おい、ふざけんな!誰がお前の母さんだ!このあまちゃんが!」
彼女の声を聞いた遠国は、自分の身に降りかかっているこの有様が、なんだか途端に面白くなってしまって、
ちょっと笑おうとした。
クローには、こいつがまだ生きようとしていることが、なんだか不気味に見えた。
こいつはまだ生きようとしている。
クローは、こんな有様で死ぬことを拒んでいる遠国をみて、情が移ってしまったのだ。
しばらくのうち、彼を殺そうとは思わなかった。


一年後、
クローと遠国はあの山で暮らしていた。
山に登る人間を殺し、金品を奪い、人間と動物の肉を食らって生き延びてきた。
遠国は、クローからこの山で生き延びる術を教わった。
人間を殺すことは、遠国にとって何のためらいもない、ささやかな日常の営みだった。
遠国にはそれができた。人生で送る時間のうち、彼が教えられた社会の営みは、彼にとって何の意味も持たなかった。

遠国とクローは、たくさんの人間を殺してきた。
たくさんの動物も殺した。
山は永遠の恵みを遠国とクローに約束する。
遠国とクローにとって、この山の暮らしはそれなりに裕福だった。

たくさんの人が、山に登り、そして山で死んだ。
死んだ彼らは言っていた。「あの山を越えるんだ」
遠国とクローはその声を聞き、人間に近づき、そして殺した。
死なない人間もいたが、クローと遠国は情もなく、その人を殺した。
誰もいらなかった。

次第に、人が山に訪れることはなくなった。
かつて村にいた人間は死に絶え、誰もいなくなっていた。
ある日、餓えた遠国が山を下りると、そこにはかつて彼が過ごしていた山村の風景があった。
誰もいなかった。

遠国はどこかおかしいなと思っていた。
クローは、絶対に山から下りようとはしなかった。
かつて豊かだった村には、もう何も残されてはいなかった。
村からあの山を眺めた時、遠国は突然決意した。
「あの山を越えるんだ」


遠国はその夜、クローと話した。
「おい……いつまでこんな暮らしを続ければいい?」
クローは呟いた。
「永遠に」
「だけど、俺はいずれ死ぬよ」
「じゃあ、死ぬまでこの山で暮らそう」
「おい!俺は人間だ。生きていかねばならん。」
だから、と彼は言った。
「今夜、俺はこの山を越える。」

クローは、遠国につかみかかった。
「ふざけるな!私がどれだけ、お前に山の恵みを与えたと思ってる?
 どれだけ、この山で暮らしてきたと思ってる?
 山を越えるなんて、馬鹿げたことを言うな!
 その先には何もない!」

飛びだそうなんて思うな その先には何もない

「ふざけるな!俺は生きようとしているだけだ!
 こんな人生は望んじゃいなかった!お前が気まぐれで俺を生かしただけだ!
 どうしてここに人間がいなくなったと思ってる?
 俺が愛したあの街は何処へ行ったんだ?
 お前のせいだ!」
おい!!クロー!
おい!!!!!!


クローは、遠国を殺した。
かつて父がそうであったように、
遠国は山で死んだんだ。
遠国が愛したあの山に、人間はいない。
クローは、正直、悲しかった。


飛びだそうなんて思うな その先には何もない


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