遠国峠と悪魔の娘







星城遠国(せいじょう えんごく)がこの山を登るとき、山に暮らす悪魔の娘にはまだ自分の名前がついていなかった。

遠国という青年に「名前は?」と聞かれることがなければ、
彼女は自分の名前を忘れたまま、誰の声にも耳を傾けずにこの山で生活することができただろう。
彼女には自分の名前があったような気もしていたが、何せ忘れていたので、
とりあえず「クロー」って名前を名乗ることにした。
脚の爪が伸びていたことを気にしていたのだった。いやそんなはずはない。

彼女の爪は悪魔の爪であった。
彼女の爪は、彼女が意識を集中することで自由自在に爪をのばすことができた。
手の指の爪である。
それは自然界の他のどのようなもので例えても説明がつかないほど、なによりも長く、早く確かなスピードで爪をのばすことができた。
でも、爪をのばしているときの彼女は、一時的に馬鹿になっている。笑ったり叫んだりしながらその爪を振りかざすと、だいたいのものをさっくりと、真っ二つに引き裂くことができたのだった。
だから彼女の爪は彼女にとっての生活必需品だった。彼女がいつからこの山で暮らしているのか、それは彼女にも分からない。爪は、この山の生活に本当に役立つものだった。

クローはいまは星城遠国と一緒に山で暮らしている。
星城遠国にとって、クローはかなり可愛らしかった。
でも何か可笑しいと思う。星城遠国という男は、どんな男であったのか。
なぜ、この山を登ろうとしていたのか。
峠を下り、待ち望んでいた栄光のゴールがあった気がする。
そして、いつか帰るところへ、山を登りに行く前に遠国が暮らしていたふるさとへ、しっかりと帰らなければいけなかったような気もする。
しかし、忘れてしまった。遠国はクローとその山で暮らしていた。



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